とくやま整骨院
2013年1月13日 日曜日
松山千春さん
松山千春さんのお話です。
_______
1975年。
松山千春は19歳で『全国フォーク音楽祭』帯広大会に出場し
そこで札幌STVラジオのディレクター竹田さんと出会った。
千春は高校時代につくった歌、「旅立ち」を歌った。
そのときの審査員が竹田さんで、新人発掘で全国に名を知られた仕事人だった。
歌い終わった後、竹田さんは千春にひとこと「ギターが悪いな」といった。
鼻っ柱の強い千春は
「俺はギターの品評会にきたんじゃないです!
歌はどうだったんですか」
と食ってかかった。
それがはじめての出会いだった。
千春は、その音楽祭で合格、全道大会に進むものの、
審査委員の間で「歌はいいが、態度があまりにも生意気だ」と、結局落選した。
竹田さんは、その生意気な無名の新人をラジオのコーナーで抜擢する。
「君のコーナーは、15分間。毎週2曲新曲を発表する。
一ヶ月で8曲、半年で48曲。
千春、どんどん曲を書かなければだめだぞ」
千春は必死に曲を書き続け、竹田さんの想いに答えた。
番組は千春のキャラもあり評判もうなぎのぼりとなった。
竹田さんはこうして溜まった楽曲のレコーディングを会社に申し出た。
ところがSTVでは猛反対にあう。
「あんなどこの馬の骨かわからん若造の曲をレコーディングして、赤字を出すだけだ」。
竹田さんは
「それなら俺の退職金を前借させてもらいます」と会社を説得した。
その熱意が実って念願のレコーディングがかなった。
デビューシングルは、さんざん悩んだ末
「俺と千春が出会った最初が『旅立ち』だ。これでいこう」
という竹田さんの一言できまった。
77年1月リリースされた「旅立ち」は道内のラジオチャートで1位を獲得、
瞬く間に千春はスターへの階段を駆け上った。
千春を影でささえた竹田さんは、、周りから「恋人より真剣につきあっている」ともいわれたほどだった。
その6月に出したファーストアルバムも好調で、多忙な合間を縫って千春を札幌の楽器店に連れて行った。
「千春、残念だけど楽器って言うのは声と違って、値段が高いほど音がいいんだ。
コンサートをやるんだから新しいギターでやらなくちゃな」
竹田さんは、出世払いだ、といいマーチン製の高級ギターを買い与えた。
「竹田さん、もうギターのせいにできないですね」。
二人は大笑いした。
そして迎えた8月のデビューコンサート。
大成功に収め公演終了後、竹田さんは、
「お前をこの世界にひきずりこんだのは俺だから一生つきあっていく。
俺は一介のラジオ局ディレクターだけど、お前がどうなっても最後まで責任を持つ。
俺のできることはなんでもする。
喧嘩しながらやっていこう」
こうしてコンサートツアーが始まった。
8月26日、千春は竹田さんに電話をいれた。
「明日の函館公演も来てくれますよね」
「わかった。ところで今からニッポン放送の人とあうんだけど、オールナイトニッポンやってみないか」
「全国区じゃないですか」
「ラジオはお前の個性が生かせる媒体だ。やってみたらどうだ。
明日、ゆっくり話そう」
ところが、次の朝、千春に知らされたのは、
竹田さんの突然の死だった。
急性心不全。享年36才。
終始元気だった最後の電話から数時間後のことだった。
信じられなかった。
「コンサートはやめだ」と泣きじゃくる千春。
だが竹田さんの声が、聞こえたような気がした。
「千春、甘っちょろいこと言うな!お前はプロなんだぞ!」
その夜、千春はアンコールで「旅立ち」を、涙を嗄らして歌った。
~~~
わたしの 瞳が濡れているのは
涙なんかじゃないわ 泣いたりしない
この日がいつか 来ることなんか
二人が出会ったときに 知っていたはず
わたしの ことなど もう気にしないで
あなたは あなたの道を 歩いて欲しい
~~~
竹田さんは、死ぬ直前に千春のために東京の仕事をとり
、
北海道を離れたがらない千春の旅立ちを準備していた。
竹田さんが生前思い描いていたように、千春は全国区のスターとなった。
そしてデビュー30余年。
千春は今も竹田さんを赤いバラに見立てて、ステージに飾っている。
千春は真っ赤なバラの理由をこう語った。
「ギター1本でステージに立つと、なんとなくさみしいから。
いつもそばにいて、見守ってくれているような気がするんだ」
今彼に対してどのように思っているのか聞くと、こう答えた。
「ずっと感謝してます。俺はこれまで長くやってきたけど、
曲つくりやコンサートの時なんか、
竹田さんにこれでいいですか?
って問いかけることもある。
ただ、それに対して答えが返ってこないのが、寂しいよな」
_______
今日の話が、皆様のお役に立てれば幸いですm(_ _)m
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1975年。
松山千春は19歳で『全国フォーク音楽祭』帯広大会に出場し
そこで札幌STVラジオのディレクター竹田さんと出会った。
千春は高校時代につくった歌、「旅立ち」を歌った。
そのときの審査員が竹田さんで、新人発掘で全国に名を知られた仕事人だった。
歌い終わった後、竹田さんは千春にひとこと「ギターが悪いな」といった。
鼻っ柱の強い千春は
「俺はギターの品評会にきたんじゃないです!
歌はどうだったんですか」
と食ってかかった。
それがはじめての出会いだった。
千春は、その音楽祭で合格、全道大会に進むものの、
審査委員の間で「歌はいいが、態度があまりにも生意気だ」と、結局落選した。
竹田さんは、その生意気な無名の新人をラジオのコーナーで抜擢する。
「君のコーナーは、15分間。毎週2曲新曲を発表する。
一ヶ月で8曲、半年で48曲。
千春、どんどん曲を書かなければだめだぞ」
千春は必死に曲を書き続け、竹田さんの想いに答えた。
番組は千春のキャラもあり評判もうなぎのぼりとなった。
竹田さんはこうして溜まった楽曲のレコーディングを会社に申し出た。
ところがSTVでは猛反対にあう。
「あんなどこの馬の骨かわからん若造の曲をレコーディングして、赤字を出すだけだ」。
竹田さんは
「それなら俺の退職金を前借させてもらいます」と会社を説得した。
その熱意が実って念願のレコーディングがかなった。
デビューシングルは、さんざん悩んだ末
「俺と千春が出会った最初が『旅立ち』だ。これでいこう」
という竹田さんの一言できまった。
77年1月リリースされた「旅立ち」は道内のラジオチャートで1位を獲得、
瞬く間に千春はスターへの階段を駆け上った。
千春を影でささえた竹田さんは、、周りから「恋人より真剣につきあっている」ともいわれたほどだった。
その6月に出したファーストアルバムも好調で、多忙な合間を縫って千春を札幌の楽器店に連れて行った。
「千春、残念だけど楽器って言うのは声と違って、値段が高いほど音がいいんだ。
コンサートをやるんだから新しいギターでやらなくちゃな」
竹田さんは、出世払いだ、といいマーチン製の高級ギターを買い与えた。
「竹田さん、もうギターのせいにできないですね」。
二人は大笑いした。
そして迎えた8月のデビューコンサート。
大成功に収め公演終了後、竹田さんは、
「お前をこの世界にひきずりこんだのは俺だから一生つきあっていく。
俺は一介のラジオ局ディレクターだけど、お前がどうなっても最後まで責任を持つ。
俺のできることはなんでもする。
喧嘩しながらやっていこう」
こうしてコンサートツアーが始まった。
8月26日、千春は竹田さんに電話をいれた。
「明日の函館公演も来てくれますよね」
「わかった。ところで今からニッポン放送の人とあうんだけど、オールナイトニッポンやってみないか」
「全国区じゃないですか」
「ラジオはお前の個性が生かせる媒体だ。やってみたらどうだ。
明日、ゆっくり話そう」
ところが、次の朝、千春に知らされたのは、
竹田さんの突然の死だった。
急性心不全。享年36才。
終始元気だった最後の電話から数時間後のことだった。
信じられなかった。
「コンサートはやめだ」と泣きじゃくる千春。
だが竹田さんの声が、聞こえたような気がした。
「千春、甘っちょろいこと言うな!お前はプロなんだぞ!」
その夜、千春はアンコールで「旅立ち」を、涙を嗄らして歌った。
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わたしの 瞳が濡れているのは
涙なんかじゃないわ 泣いたりしない
この日がいつか 来ることなんか
二人が出会ったときに 知っていたはず
わたしの ことなど もう気にしないで
あなたは あなたの道を 歩いて欲しい
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竹田さんは、死ぬ直前に千春のために東京の仕事をとり
、
北海道を離れたがらない千春の旅立ちを準備していた。
竹田さんが生前思い描いていたように、千春は全国区のスターとなった。
そしてデビュー30余年。
千春は今も竹田さんを赤いバラに見立てて、ステージに飾っている。
千春は真っ赤なバラの理由をこう語った。
「ギター1本でステージに立つと、なんとなくさみしいから。
いつもそばにいて、見守ってくれているような気がするんだ」
今彼に対してどのように思っているのか聞くと、こう答えた。
「ずっと感謝してます。俺はこれまで長くやってきたけど、
曲つくりやコンサートの時なんか、
竹田さんにこれでいいですか?
って問いかけることもある。
ただ、それに対して答えが返ってこないのが、寂しいよな」
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今日の話が、皆様のお役に立てれば幸いですm(_ _)m
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