とくやま整骨院
2013年1月16日 水曜日
稲盛和夫先輩
JALの再建を託された名経営者、稲盛和夫さんのインタビューが、
日経ビジネスという雑誌に掲載されていました。
〜〜〜〜
私は、航空運輸事業に対して全く無知の門外漢でした。
JALの会長に着任したときには、
再建できる自信のかけらもありませんでした。
私が持っているのは、
自分の経営哲学
「京セラフィロソフィー」
「アメーバシステム」(小集団による管理会計システム)
だけです。
何もわからないまま、この2つだけを携えて、JALにきました。
JALはピラミッド型の官僚組織のような企業でした。
一握りのエリートがすべてを企画し、5万人の社員に師事を出していた。
幹部からは人間味を感じられず、
非常に冷たいエリート官僚のような感じがしました。
これで会社経営がうまくいくはずがありません。
まずは、幹部40〜50人に考え方を変えてもらわなければならん。
そう思って、経営者である以前に、
人間としてどうあるべきか
という人生哲学を説き始めたんです。
幹部のみなさん、50歳を過ぎていて、
彼らを相手に、80歳のおっさんが話をすると、
最初はみんな変な顔をしていました。
顔を見たら、小馬鹿にしているのか、納得しているのかはわかります。
不真面目な人間は厳しく叱りましたよ。
「親父に当るような年の人間が、
親が子に説くようなことを言う。
そのくらい知っとるわと思っとるやろう。
でも、知っていても、
それを身につけていないどころか、
日常の行動に何も反映されていない。
君の人間性が考え方に影響を及ぼし、
人間性そのものが日常の経営に出てこなければ意味がないんだよ」 と。
それはもうトコトン、話しました。
私があまりにも厳しくいうものですから、
少しずつ分かり始めてくれまして、
猛反省して、他の従業員にも伝えようと思うように変わってきた。
そこで、現場の社員まで一気に考え方を拡げていきました。
航空ビジネスは、究極のサービス業だとも私は思いました。
お客様がJALを愛し、
JALを選んで乗ろうと思わなかったら、再建できるはずがない。
その為には、現場で働く人たちが
素晴らしい人間性を持つようになって初めて、
お客様はJALに乗ろうと思うようになる。
そこで、私が現場の従業員にとことん説きました。
80歳を前にした老人が、
無窮で現場に来て、
人間としてどうあるべきかを説く。
するとそれぞれの現場が考え方を変え、
持ち場で一生懸命、創意工夫を重ねるようになった。
みんなが目覚めてきて、
雰囲気がガラッと変わりました。
約3万2000人の従業員が変わったからこそ、
JALは再建できたと思っています。
リーダーの役割は、
現場の人の心を変えることだと思っています。
リーダーとは、
哲学者であると同時に、
従業員の教師でなくてはダメだと思っています。
トップが現場の従業員全員に対して、
熱涙下るような訓示で心を一つにしなきゃいかん。
〜〜〜〜
稲盛さんは、京セラの時の会社経営の目的をJALにも持ってきたそうです。
「全従業員の物心両面の幸福を追求する」
テクニックやノウハウやマーケティングやマネジメント・・・・
経営者の前に、「人間としてどうあるべきか」。
在り方
ですね。
-*-*-今日の輝く言霊-*-*-
利他の心
をベースにして、
テクニックを使うべきだ
(稲盛和夫さん)
☆...━━━━━━━━...☆
日経ビジネスという雑誌に掲載されていました。
〜〜〜〜
私は、航空運輸事業に対して全く無知の門外漢でした。
JALの会長に着任したときには、
再建できる自信のかけらもありませんでした。
私が持っているのは、
自分の経営哲学
「京セラフィロソフィー」
「アメーバシステム」(小集団による管理会計システム)
だけです。
何もわからないまま、この2つだけを携えて、JALにきました。
JALはピラミッド型の官僚組織のような企業でした。
一握りのエリートがすべてを企画し、5万人の社員に師事を出していた。
幹部からは人間味を感じられず、
非常に冷たいエリート官僚のような感じがしました。
これで会社経営がうまくいくはずがありません。
まずは、幹部40〜50人に考え方を変えてもらわなければならん。
そう思って、経営者である以前に、
人間としてどうあるべきか
という人生哲学を説き始めたんです。
幹部のみなさん、50歳を過ぎていて、
彼らを相手に、80歳のおっさんが話をすると、
最初はみんな変な顔をしていました。
顔を見たら、小馬鹿にしているのか、納得しているのかはわかります。
不真面目な人間は厳しく叱りましたよ。
「親父に当るような年の人間が、
親が子に説くようなことを言う。
そのくらい知っとるわと思っとるやろう。
でも、知っていても、
それを身につけていないどころか、
日常の行動に何も反映されていない。
君の人間性が考え方に影響を及ぼし、
人間性そのものが日常の経営に出てこなければ意味がないんだよ」 と。
それはもうトコトン、話しました。
私があまりにも厳しくいうものですから、
少しずつ分かり始めてくれまして、
猛反省して、他の従業員にも伝えようと思うように変わってきた。
そこで、現場の社員まで一気に考え方を拡げていきました。
航空ビジネスは、究極のサービス業だとも私は思いました。
お客様がJALを愛し、
JALを選んで乗ろうと思わなかったら、再建できるはずがない。
その為には、現場で働く人たちが
素晴らしい人間性を持つようになって初めて、
お客様はJALに乗ろうと思うようになる。
そこで、私が現場の従業員にとことん説きました。
80歳を前にした老人が、
無窮で現場に来て、
人間としてどうあるべきかを説く。
するとそれぞれの現場が考え方を変え、
持ち場で一生懸命、創意工夫を重ねるようになった。
みんなが目覚めてきて、
雰囲気がガラッと変わりました。
約3万2000人の従業員が変わったからこそ、
JALは再建できたと思っています。
リーダーの役割は、
現場の人の心を変えることだと思っています。
リーダーとは、
哲学者であると同時に、
従業員の教師でなくてはダメだと思っています。
トップが現場の従業員全員に対して、
熱涙下るような訓示で心を一つにしなきゃいかん。
〜〜〜〜
稲盛さんは、京セラの時の会社経営の目的をJALにも持ってきたそうです。
「全従業員の物心両面の幸福を追求する」
テクニックやノウハウやマーケティングやマネジメント・・・・
経営者の前に、「人間としてどうあるべきか」。
在り方
ですね。
-*-*-今日の輝く言霊-*-*-
利他の心
をベースにして、
テクニックを使うべきだ
(稲盛和夫さん)
☆...━━━━━━━━...☆

投稿者 笑顔道整骨院 | 記事URL
2013年1月15日 火曜日
魂を磨く
【なめられちゃいけない】№1138
斉藤一人さんの心に響く言葉より...
人はね、どういう目的があって生まれるんですかっていうと、魂の成長なんです。
魂の成長のなかでいちばん、地球でしかできないこと、それが人間関係と経済関係なんです。
だから、まず人間関係。
人間関係がああ嫌だ、こう嫌だ、っていう人は、ほんとうの理由は、あなたがなめられているんです。
なめられているとどこ行っても、なめられる人はなめられる。
どこ行っても楽しくないですよ。
だから、頭の中に「いばっちゃいけない、なめられちゃいけない」。
なめられている人は、なめられちゃいけないっていうのが脳に入ってないの。
だから1日100回くらい「いばっちゃいけない、なめられちゃいけない」って言っていると、そういうときにどういう態度をとったらなめられないか、ってサッと脳はやってくれますからね。
もし職場でなめられている人は、この問題を解決するためにこの職場にいるんだから、その職場でなめられないようになってから、よそへいったほうがいいですよ。
それで、なめられなくなればその職場にいても楽しいということですよ。
そして、経済関係ですが、豊かになりたいなら、働くしかないんです。
お金って、働く以外、絶対に手に入らないんですよ。
どろぼうとか盗人とかそういうことできないんだよね。
それと、あなたがティッシュ配りだとしますね。
で、10人に配ると、9人が受け取ってくれないとします。
中にはつっけんどんに追い返す人がいたり、嫌な人がいるから、お給料がもらえるんですよ。
だから、受け取ってくれる人よりも、断る人が多いことがあなたの仕事を成り立たせているんだよね。
セールスでもなんでも同じです。
嫌な部分が多いものほど、お給料が高いんです。
これからもっとお給料を上げたい、って言ったら、もっと嫌なことに果敢に挑戦しないと無理ですよ、っていうことです。
この星は行動の星ですからね、思ったことが正しいかどうかは、行動してみてわかる星なんです。
『ゆほびかGOLD vol.17』マキノ出版ムック
なめられる人は、過度にやさしい人が多い。
自分の言いたいこともいわなかったり、自分の気持を出すことをじっと我慢して、波風立てないことがやさしさだと思っている。
そして、いったんなめられると、その従属関係はずっと続く。
いつも、なめられたり、見くびられたり、バカにされていると、いつか何かの形で爆発することになってしまう。
威張るというのではなく、言うべきときにははっきりと言える、自立した大人であることが必要だ。
また、宝くじや、ギャンブルなどで、本当のお金持ちになった人はいない。
儲けるのは、胴元だけ。
お金が欲しいならコツコツと働くしかない。
嫌なことがあったり、うまくいかないからこそ仕事であって、なんの辛いこともなく、全てが思い通りにいくのは夢の中や空想の世界。
「イヤなほうから幸運の矢は飛んでくる」(萩本欽一)
イヤなことに進んで飛び込む人に、お金も幸運もやってくる。
魂の成長のため、1つずつ行動に移したい。

とくやま板金
斉藤一人さんの心に響く言葉より...
人はね、どういう目的があって生まれるんですかっていうと、魂の成長なんです。
魂の成長のなかでいちばん、地球でしかできないこと、それが人間関係と経済関係なんです。
だから、まず人間関係。
人間関係がああ嫌だ、こう嫌だ、っていう人は、ほんとうの理由は、あなたがなめられているんです。
なめられているとどこ行っても、なめられる人はなめられる。
どこ行っても楽しくないですよ。
だから、頭の中に「いばっちゃいけない、なめられちゃいけない」。
なめられている人は、なめられちゃいけないっていうのが脳に入ってないの。
だから1日100回くらい「いばっちゃいけない、なめられちゃいけない」って言っていると、そういうときにどういう態度をとったらなめられないか、ってサッと脳はやってくれますからね。
もし職場でなめられている人は、この問題を解決するためにこの職場にいるんだから、その職場でなめられないようになってから、よそへいったほうがいいですよ。
それで、なめられなくなればその職場にいても楽しいということですよ。
そして、経済関係ですが、豊かになりたいなら、働くしかないんです。
お金って、働く以外、絶対に手に入らないんですよ。
どろぼうとか盗人とかそういうことできないんだよね。
それと、あなたがティッシュ配りだとしますね。
で、10人に配ると、9人が受け取ってくれないとします。
中にはつっけんどんに追い返す人がいたり、嫌な人がいるから、お給料がもらえるんですよ。
だから、受け取ってくれる人よりも、断る人が多いことがあなたの仕事を成り立たせているんだよね。
セールスでもなんでも同じです。
嫌な部分が多いものほど、お給料が高いんです。
これからもっとお給料を上げたい、って言ったら、もっと嫌なことに果敢に挑戦しないと無理ですよ、っていうことです。
この星は行動の星ですからね、思ったことが正しいかどうかは、行動してみてわかる星なんです。
『ゆほびかGOLD vol.17』マキノ出版ムック
なめられる人は、過度にやさしい人が多い。
自分の言いたいこともいわなかったり、自分の気持を出すことをじっと我慢して、波風立てないことがやさしさだと思っている。
そして、いったんなめられると、その従属関係はずっと続く。
いつも、なめられたり、見くびられたり、バカにされていると、いつか何かの形で爆発することになってしまう。
威張るというのではなく、言うべきときにははっきりと言える、自立した大人であることが必要だ。
また、宝くじや、ギャンブルなどで、本当のお金持ちになった人はいない。
儲けるのは、胴元だけ。
お金が欲しいならコツコツと働くしかない。
嫌なことがあったり、うまくいかないからこそ仕事であって、なんの辛いこともなく、全てが思い通りにいくのは夢の中や空想の世界。
「イヤなほうから幸運の矢は飛んでくる」(萩本欽一)
イヤなことに進んで飛び込む人に、お金も幸運もやってくる。
魂の成長のため、1つずつ行動に移したい。

とくやま板金
投稿者 笑顔道整骨院 | 記事URL
2013年1月13日 日曜日
松山千春さん
松山千春さんのお話です。
_______
1975年。
松山千春は19歳で『全国フォーク音楽祭』帯広大会に出場し
そこで札幌STVラジオのディレクター竹田さんと出会った。
千春は高校時代につくった歌、「旅立ち」を歌った。
そのときの審査員が竹田さんで、新人発掘で全国に名を知られた仕事人だった。
歌い終わった後、竹田さんは千春にひとこと「ギターが悪いな」といった。
鼻っ柱の強い千春は
「俺はギターの品評会にきたんじゃないです!
歌はどうだったんですか」
と食ってかかった。
それがはじめての出会いだった。
千春は、その音楽祭で合格、全道大会に進むものの、
審査委員の間で「歌はいいが、態度があまりにも生意気だ」と、結局落選した。
竹田さんは、その生意気な無名の新人をラジオのコーナーで抜擢する。
「君のコーナーは、15分間。毎週2曲新曲を発表する。
一ヶ月で8曲、半年で48曲。
千春、どんどん曲を書かなければだめだぞ」
千春は必死に曲を書き続け、竹田さんの想いに答えた。
番組は千春のキャラもあり評判もうなぎのぼりとなった。
竹田さんはこうして溜まった楽曲のレコーディングを会社に申し出た。
ところがSTVでは猛反対にあう。
「あんなどこの馬の骨かわからん若造の曲をレコーディングして、赤字を出すだけだ」。
竹田さんは
「それなら俺の退職金を前借させてもらいます」と会社を説得した。
その熱意が実って念願のレコーディングがかなった。
デビューシングルは、さんざん悩んだ末
「俺と千春が出会った最初が『旅立ち』だ。これでいこう」
という竹田さんの一言できまった。
77年1月リリースされた「旅立ち」は道内のラジオチャートで1位を獲得、
瞬く間に千春はスターへの階段を駆け上った。
千春を影でささえた竹田さんは、、周りから「恋人より真剣につきあっている」ともいわれたほどだった。
その6月に出したファーストアルバムも好調で、多忙な合間を縫って千春を札幌の楽器店に連れて行った。
「千春、残念だけど楽器って言うのは声と違って、値段が高いほど音がいいんだ。
コンサートをやるんだから新しいギターでやらなくちゃな」
竹田さんは、出世払いだ、といいマーチン製の高級ギターを買い与えた。
「竹田さん、もうギターのせいにできないですね」。
二人は大笑いした。
そして迎えた8月のデビューコンサート。
大成功に収め公演終了後、竹田さんは、
「お前をこの世界にひきずりこんだのは俺だから一生つきあっていく。
俺は一介のラジオ局ディレクターだけど、お前がどうなっても最後まで責任を持つ。
俺のできることはなんでもする。
喧嘩しながらやっていこう」
こうしてコンサートツアーが始まった。
8月26日、千春は竹田さんに電話をいれた。
「明日の函館公演も来てくれますよね」
「わかった。ところで今からニッポン放送の人とあうんだけど、オールナイトニッポンやってみないか」
「全国区じゃないですか」
「ラジオはお前の個性が生かせる媒体だ。やってみたらどうだ。
明日、ゆっくり話そう」
ところが、次の朝、千春に知らされたのは、
竹田さんの突然の死だった。
急性心不全。享年36才。
終始元気だった最後の電話から数時間後のことだった。
信じられなかった。
「コンサートはやめだ」と泣きじゃくる千春。
だが竹田さんの声が、聞こえたような気がした。
「千春、甘っちょろいこと言うな!お前はプロなんだぞ!」
その夜、千春はアンコールで「旅立ち」を、涙を嗄らして歌った。
~~~
わたしの 瞳が濡れているのは
涙なんかじゃないわ 泣いたりしない
この日がいつか 来ることなんか
二人が出会ったときに 知っていたはず
わたしの ことなど もう気にしないで
あなたは あなたの道を 歩いて欲しい
~~~
竹田さんは、死ぬ直前に千春のために東京の仕事をとり
、
北海道を離れたがらない千春の旅立ちを準備していた。
竹田さんが生前思い描いていたように、千春は全国区のスターとなった。
そしてデビュー30余年。
千春は今も竹田さんを赤いバラに見立てて、ステージに飾っている。
千春は真っ赤なバラの理由をこう語った。
「ギター1本でステージに立つと、なんとなくさみしいから。
いつもそばにいて、見守ってくれているような気がするんだ」
今彼に対してどのように思っているのか聞くと、こう答えた。
「ずっと感謝してます。俺はこれまで長くやってきたけど、
曲つくりやコンサートの時なんか、
竹田さんにこれでいいですか?
って問いかけることもある。
ただ、それに対して答えが返ってこないのが、寂しいよな」
_______
今日の話が、皆様のお役に立てれば幸いですm(_ _)m
_______
1975年。
松山千春は19歳で『全国フォーク音楽祭』帯広大会に出場し
そこで札幌STVラジオのディレクター竹田さんと出会った。
千春は高校時代につくった歌、「旅立ち」を歌った。
そのときの審査員が竹田さんで、新人発掘で全国に名を知られた仕事人だった。
歌い終わった後、竹田さんは千春にひとこと「ギターが悪いな」といった。
鼻っ柱の強い千春は
「俺はギターの品評会にきたんじゃないです!
歌はどうだったんですか」
と食ってかかった。
それがはじめての出会いだった。
千春は、その音楽祭で合格、全道大会に進むものの、
審査委員の間で「歌はいいが、態度があまりにも生意気だ」と、結局落選した。
竹田さんは、その生意気な無名の新人をラジオのコーナーで抜擢する。
「君のコーナーは、15分間。毎週2曲新曲を発表する。
一ヶ月で8曲、半年で48曲。
千春、どんどん曲を書かなければだめだぞ」
千春は必死に曲を書き続け、竹田さんの想いに答えた。
番組は千春のキャラもあり評判もうなぎのぼりとなった。
竹田さんはこうして溜まった楽曲のレコーディングを会社に申し出た。
ところがSTVでは猛反対にあう。
「あんなどこの馬の骨かわからん若造の曲をレコーディングして、赤字を出すだけだ」。
竹田さんは
「それなら俺の退職金を前借させてもらいます」と会社を説得した。
その熱意が実って念願のレコーディングがかなった。
デビューシングルは、さんざん悩んだ末
「俺と千春が出会った最初が『旅立ち』だ。これでいこう」
という竹田さんの一言できまった。
77年1月リリースされた「旅立ち」は道内のラジオチャートで1位を獲得、
瞬く間に千春はスターへの階段を駆け上った。
千春を影でささえた竹田さんは、、周りから「恋人より真剣につきあっている」ともいわれたほどだった。
その6月に出したファーストアルバムも好調で、多忙な合間を縫って千春を札幌の楽器店に連れて行った。
「千春、残念だけど楽器って言うのは声と違って、値段が高いほど音がいいんだ。
コンサートをやるんだから新しいギターでやらなくちゃな」
竹田さんは、出世払いだ、といいマーチン製の高級ギターを買い与えた。
「竹田さん、もうギターのせいにできないですね」。
二人は大笑いした。
そして迎えた8月のデビューコンサート。
大成功に収め公演終了後、竹田さんは、
「お前をこの世界にひきずりこんだのは俺だから一生つきあっていく。
俺は一介のラジオ局ディレクターだけど、お前がどうなっても最後まで責任を持つ。
俺のできることはなんでもする。
喧嘩しながらやっていこう」
こうしてコンサートツアーが始まった。
8月26日、千春は竹田さんに電話をいれた。
「明日の函館公演も来てくれますよね」
「わかった。ところで今からニッポン放送の人とあうんだけど、オールナイトニッポンやってみないか」
「全国区じゃないですか」
「ラジオはお前の個性が生かせる媒体だ。やってみたらどうだ。
明日、ゆっくり話そう」
ところが、次の朝、千春に知らされたのは、
竹田さんの突然の死だった。
急性心不全。享年36才。
終始元気だった最後の電話から数時間後のことだった。
信じられなかった。
「コンサートはやめだ」と泣きじゃくる千春。
だが竹田さんの声が、聞こえたような気がした。
「千春、甘っちょろいこと言うな!お前はプロなんだぞ!」
その夜、千春はアンコールで「旅立ち」を、涙を嗄らして歌った。
~~~
わたしの 瞳が濡れているのは
涙なんかじゃないわ 泣いたりしない
この日がいつか 来ることなんか
二人が出会ったときに 知っていたはず
わたしの ことなど もう気にしないで
あなたは あなたの道を 歩いて欲しい
~~~
竹田さんは、死ぬ直前に千春のために東京の仕事をとり
、
北海道を離れたがらない千春の旅立ちを準備していた。
竹田さんが生前思い描いていたように、千春は全国区のスターとなった。
そしてデビュー30余年。
千春は今も竹田さんを赤いバラに見立てて、ステージに飾っている。
千春は真っ赤なバラの理由をこう語った。
「ギター1本でステージに立つと、なんとなくさみしいから。
いつもそばにいて、見守ってくれているような気がするんだ」
今彼に対してどのように思っているのか聞くと、こう答えた。
「ずっと感謝してます。俺はこれまで長くやってきたけど、
曲つくりやコンサートの時なんか、
竹田さんにこれでいいですか?
って問いかけることもある。
ただ、それに対して答えが返ってこないのが、寂しいよな」
_______
今日の話が、皆様のお役に立てれば幸いですm(_ _)m

投稿者 笑顔道整骨院 | 記事URL
2013年1月13日 日曜日
努力
涙の数だけ大きくなれる 木下晴弘著
「当たり前のことを当たり前と思えないくらいやる」
↓
↓
↓
努力とはなんでしょうか?
私は努力の定義という話を生徒によくしていました。
「よく先生やお父さん、お母さんが努力っていうよな」
「勉強しろ、勉強しろとうるさく言う」
「では聞くけど、努力って何だい?」
「もしかすると先生の考える定義と君たちが考える定義と違うかも知れないぞ」
すると「とにかくがむしゃらにがんばること」
といった答えが生徒から帰ってきました。
しかし、私はそれに対してこう返します。
「それでも確かに努力だろう」
「でも先生の努力は少し違う」
「先生が言う努力とは、人間としてこれくらいやって当然だという、当たり前のことってあるよな」
「君たちの勉強ということで考えた場合、たとえば毎日、計算を練習したり、あるいは英単語を5つ覚えたり、漢字を練習したり」
「これって、日々の基礎学力をつけるという目的からすれば、ちゃんとやって当たり前のことだろう」
「こうしたやって当たり前のことを、当たり前と思えないほどの情熱を傾けて行う、それを努力というんだよ」
これが私の努力の定義です。
「こういう、やって当たり前のことを当たり前と思えないほどの情熱で行うと何が起こるか分かるか」
「同じような情熱を持った人が、君たちに気づいてくれるんだ」
「たとえば、君たちが人に挨拶をするときに、これ以上ないくらい情熱を傾けて挨拶をすれば、すごい挨拶だと感心してひと声かけてくれる人が必ず出てくるんだ」
「そして、そういうやって当たり前のことを当たり前と思えないほどの情熱でやる人たちには、そういう人たちのサークルがあって、つながりあってステージとして用意されている」
「当然、そういう人たちの人生は情熱的な人生であり、それに触れた君たちも情熱的に生きることになる」
「それがこの世の現象としてはっきり起こることなんだ」
当たり前のことをやり続ける。
そうした努力が、いつか大きな花を咲かせる。
======
みなさんの努力の定義は何ですか?
当たり前のことを情熱をもってやり続ける・・・
それが大きく花ひらくんですね!

投稿者 笑顔道整骨院 | 記事URL
2013年1月12日 土曜日
成人の日
実際にあった成人の日のお話です。
_______
成人式の日、
それは美容室にとって、
大いに気合いが入る日。
その年の成人式も、夜中の午前2時からお客様を迎え入れ、
リポD飲んで気合いを入れてから、
手を休める事なく仕事をしました。
ようやくその日最後のお客様となり、
成人式ヘアーをつくっていると、
ものすごく視線を感じました。
その先へチラッと目をやると、
その子のお母様が、
じ〜っと見ているのです。
娘さんのヘアースタイルの出来をチェックしているのかな〜と思い、
「よかったら隣で見て下さい。
もう落ち着いたので、こちらに座っても大丈夫です。
近くの方がよく見えますよ♪」
と言い、娘さんの隣に座ってもらいました。
しばらくすると、今度は鼻をすする音が聞こえてきました。
気を使いながら、その音の方をみると、
今度は涙をポロポロと流しているではありませんか・・・
なんて言葉をかけていいのか分からなかったけど、
「本当におめでとうこざいます。
ここまで育てるのも、大変な御苦労があったことをお察しします」
そして娘さんに、
「○○ちゃん、
これからもお母さんの言うことをちゃんと聞くんだよ!
そしてこれからは○○ちゃんが返す番だからね」
そう言い終わると、
お母さんの嗚咽がお店の中に響きました。
まずい事を言ってしまったかな?と反省しながら成人式のヘアーと着付けが終わり、
その親子はお帰りになりました。
数日後、娘さんが1人でお店にやってきました。
成人式の時のお礼にと、菓子折りをもってきて、話してくれました。
実はお母さま、
5年前に余命宣告されていて、
医者に言われたのが、
もってあと2年・・・
娘さんが15歳の時なので、17歳の頃には旅立っている計算です。
その時お母さんは、口ぐせのように言っていたそうです。
「あんたが成人するまでは生きていたい!
成人式で着物姿が見れたら、他には何もいらない!
それまでは何としてでも生きたい!」
必死の闘病生活だったそうです。
「だから泣いていたんですね。
念願の着物姿が見れて」
すると娘さんが言いました。
「それもそうなんですが、
もう一つ理由がありまして」
「どうしたの?」
「実は私、
口うるさく注意してくる母が嫌いで、
高校卒業後、すぐに就職して引越したんです。
それからはほとんど連絡も取らず、
好き勝手やっていました。
だから本当は成人式も出ないつもりでした」
「じゃあ、何で成人式に出たの?」
「20歳の誕生日のとき、
母から手紙が来たんです。
その手紙には"ありがとう"って書かれていました。
2年間、
病気で大変な母をほったらかし、
ほとんど連絡も取らない私にたいして母は、
"もうそろそろお迎えがくるかもしれないそうです・・・
だから最期に言っておきたくて、
私のもとへ生まれてきてくれてありがとう。
あえなくても私は毎日あなたを思っていて幸せでした
本当にありがとう"
私は自分が情けなくなって、
すぐに電話をしました。
"成人式の準備しといてよね!
それまでに死んじゃダメだよ"
泣きながら話していました」
「お母さん素敵だね。
大切にしなよっ!」
そう言った僕も泣いていました・・・
_______
どれほどその日を待ちわびただろう・・・
どれほど嬉しかっただろう・・・
どれほど頑張ったのだろう・・・
想像しただけで、涙が溢れてしまいます。
自分自信も親になって、少しだけ親の気持ちが分かるようになったのかな

徳山車修理
周南市板金
投稿者 笑顔道整骨院 | 記事URL